想定外のチャレンジが成長につながる。阪急阪神百貨店で出会った、新しい自分。
想定外のチャレンジが成長につながる。
阪急阪神百貨店で出会った、新しい自分。
このストーリーのポイント
- 原点にあるのは、幼い頃の“食”への思い出
- 手探りで挑んだ中国の新店プロジェクト
- “食”を通じた社会課題の解決に挑む
子どもの頃に憧れていた百貨店のキラキラした世界。しかし入社後の歩みは、想像もしていなかったチャレンジの連続だった。だからこそ新たな可能性に出会え、成長が得られた。これからも挑戦は続く。
株式会社阪急阪神百貨店
エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社 経営企画グループ
2010年入社/経済学部卒

兵庫県出身。“食なら日本一”というイメージに惹かれて入社。阪神梅田本店フード営業統括部、同フード営業統括部、あまがさき阪神、寧波阪急準備室、寧波阪急商業有限公司出向を経て、2025年4月より現職。「関西おいしい総研プロジェクト」にて、食を通じた社会課題の解決に挑戦中。
地元への貢献を志して
西宮出身の私にとって子どもの頃から「阪急うめだ本店」は、キラキラした存在でした。よそ行きのきれいな服を着ていく“ハレの日”のお店で、デパ地下でケーキや唐揚げを買ってもらうのが楽しみでした。子供心に、世界中の美味しいものが何でも集まっている場所だと思っていました。
学生時代はアメリカンフットボールに打ち込み、体づくりのために1日6食は食べる生活を送っていたこともあって、“食”は私にとって大切なことでした。
そのアメフトでは大きな挫折も経験しました。
高校3年生では日本一になれたものの、大学3年生で怪我などもあり、選手の道を断念してしまったのです。苦しかったですが、次はコーチの立場で選手を支えたいと切り替えて、高校生を指導することにしました。コーチは部員を指導するだけでなく、保護者会等で親御さんとも接しなくてはなりません。人と話すことは好きだったので、その経験でコミュニケーション能力がさらに磨かれたと思います。
アメフト部のOBで、当社で働いていた先輩から「百貨店で働いてみないか」とお声がけいただいたのは、挫折にも折れなかったことや人当たりのよさなどが評価されてのことだったかもしれません。幼い頃からの「阪急うめだ本店」への憧れ、“食”への強い関心に加え、生まれ育った地元に貢献したいとの思いから、そのお誘いはとても嬉しいものでした。
内定の連絡をいただいたのは、私の誕生日。私にしてみれば思いがけないサプライズとなり、背中を押されるように入社を決心しました。

中国赴任という想定外の道
最初に配属されたのは阪神梅田本店の和洋酒売場でした。赴任直後、店長が「山口君はどこや」と声を上げて私を探し回って一声かけてくれたことを覚えています。“期待されているんだな”と新人ながら嬉しく思ったものでした。
担当は、ワインでした。阪神ワイン売場の名物「千均ワインコーナー」を任され、上司からは「自分の好きなワインを並べていい」と言われ、“こんな新人に任せていいんですか?”と驚きながらも、自分なりに調べて一番美味しいと思ったイタリアのワインを仕入れました。自分で選んだ商品が売場に並び、それをお客様が買って飲んでくださることに感激し、“食”の仕事の醍醐味を知りました。
5年目に異動した先が、あまがさき阪神です。ここではマネジャーの代理として売場や仕入先の管理を担当しました。阪神梅田本店に比べれば規模も売上も小さく、従業員も少ないので、一緒に働く全員の力を最大限に引き出さなくてはならないと感じました。特に苦労したのが、食品催事です。1年を通して週ごとに季節の催事を展開しなくてはならず、私にとって初めての仕事でもあったことから、常に催事に追い立てられている感覚でした。
それまでは目の前のワインの売場だけを見ていればよかったのに、ここでは毎月の食の歳時記や季節性を考えながら生鮮三品、和洋菓子、惣菜、お酒とすべてのカテゴリーに渡る催事を企画することが求められた点に大変苦労しました。

中国に関わりがはじまったのは、そんなときでした。当時、日本の国策として「クールジャパン戦略」が進められており、その一環として当社も中国の寧波(ニンボー/ねいは)市に百貨店を出店する計画が持ち上がっていたのです。その準備のために海外の特に欧州の百貨店の食品売場の視察部隊が結成され、私もその一員に選ばれました。
もっとも“まさか英語も中国語もできない自分が海外で働くなんて”と思っていたので、最終的にこのプロジェクトに参画することはないだろうと考えていました。ですから中国の百貨店開店プロジェクトのメンバーに選ばれたことは、想定外もいいところで、“まさか!”の一言に尽きました。アメフトで身につけたタフさ、挫折に負けなかった精神的な強さが評価されたのかもしれません。
とはいえ、当時の私は子どもが生まれたばかりです。決して簡単な話ではありません。ところが妻は「こないだ占ってもらったら海外に暮らすことになるから準備するように言われた」と笑って応援してくれたのです。こうして私は家族3人で中国に赴任し、寧波阪急の開店に向けた準備に奔走することになりました。自分でも想定していなかった扉を、会社に開いてもらった気持ちでした。

原動力となったのは店舗への愛
寧波阪急開店の準備は、まさにチャレンジの連続でした。同じアジアとはいえ文化や価値観が大きく異なる地域での出店ですから、それも当然のこと。悪戦苦闘の連続で、試行錯誤しながら進んでいくしかありませんでした。
特に苦労したのが、私の担当する食品売場です。当初は日本のデパ地下をそのまま持ってくる計画だったのですが、中国内のどこの都市の商業施設を覗いてもそんなものは存在していません。理由は、中国の人たちは、目の前で作ったものや温かいものでないと決して口に入れないからでした。そこで日本型デパ地下は諦め、できたての食を中心に提供出来るフードホール型の売場へと構想を180度転換させました。
中国語については、通訳をしてくれるスタッフはいたのですが、やはり直接コミュニケーションを取ることが大切だと考え、日常会話レベルはできるように勉強しました。流行歌は言葉を学ぶ上で特に効果的で、人気歌手のヒット曲は歌詞を見なくても歌えるようになりました。

寧波阪急は2021年4月に開店しました。苦労してようやく開店にこぎ着けただけに、その瞬間はきっと感動で泣くだろうと覚悟していたのですが、想像以上に大勢のお客さまが押しかけたおかげで、涙を流すどころではありませんでした。1カ月ほどはフロアもぎゅうぎゅう詰めで、毎日バタバタと走り回るように過ごしました。
そんな中で、新たな問題が発生しました。自信を持って準備したレストランフロアにお客様があまりリピートしてくださらなかったのです。寧波阪急のお客様には想定以上に富裕層が多く、その方々が満足できるような高級店がなかったためでした。そこで既に入居している店舗と退店交渉を進める傍ら、高級店をテナントとして誘致すべく奔走することに。ところが上海に比べて寧波に出店するメリットがないなどの理由で、いくらリーシング、誘致をしても断られ続けてしまったのです。
そんな中で唯一手応えを得られたのが、たまたま上海以外への展開を考えていた高級店でした。私は何度も上海に通ってオーナーに面会し、必死で出店交渉し、寧波にまで足を運んで現地調査していただき、ついに契約に結びつけることができました。この誰もが高級店と認める店が出店したことにより、レストランフロア全体を格上げすることに成功し、その後の出店交渉やビジネス展開にも繋がりました。
中国のビジネスは、短期決戦です。日本のように、一旦持ち帰って検討してから返答するというスタイルは通用しません。決定はその場で素早く下し、その後に細かな内容を詰めていくやり方が主です。スピード感が決め手なのです。また、組織ではなくて個人への信用を何よりも重視するのも中国ビジネスです。そのため商談では必ず一緒に食事し、お酒を飲みながら、どういう人間かを見極めようとします。強いお酒を勧められ飲んでも、その場では決して緊張が緩むことはありませんでした。
日本とは異なるそんな商習慣のど真ん中で私がやり通せたのは、まず何としてもこのプロジェクトを成功させなくてはという使命感があったからでした。特に「クールジャパン戦略」の一環ということで、日本を代表して中国でビジネスをしているという感覚が強くありました。
もう一つは、お店に対する愛情です。準備段階から手がけ、売場を一つひとつ、自分で生み出し、育ててきたという自負がありました。まさに自分の子どものような感覚です。だからこそ絶対にこのお店を成功させたいという想いがあり、それが私の原動力となりました。

“食”を通じた社会課題の解決
中国で過ごした10年を終え、帰国した私を新しいミッションが待っていました。「関西おいしい総研プロジェクト」です。これは“食”を通じて社会課題の解決を考えるという取り組みです。人口減少で農業の担い手が減って米が食べられなくなるかもしれないとか、地球温暖化で魚が捕れなくなるかもしれないとか、今まで自分の仕事とは関係ないと思っていたことが実は密接に結びついていることを知り、自分に何ができるか、勉強しているところです。
社会課題と構えるとネガティブなイメージがありますが、私は“食”という切り口によってキラキラとしたポジティブなアプローチができるのではないかと考えています。
実は中国から帰ってくるときは、また売場に立ちたいと考えていました。しかし10年のギャップは大きく、すぐに現場に馴染むのは難しいかもしれません。「関西おいしい総研プロジェクト」へのアサインにはそんな配慮があったのではないかと感謝しています。
将来は百貨店の現場に戻り、これまでの経験を活かして、阪急うめだ本店がグローバルデパートメントストアを目指す力になりたいと考えています。30代は中国で過ごし、40代は新たなチャレンジをすることになるでしょう。やがて迎える50代は百貨店人生の集大成として、地元・関西への恩返しにつながる挑戦ができたらと思っています。
私が一緒に働きたいのは、自分の夢を持っている人です。「夢なき者に成功なし」という言葉があるように、新しい挑戦をするときは夢が原動力となります。 時代が大きく変わっている今だからこそ、そんな夢の力を信じる方と、ともに前へ進んでいきたいと思います。

